モハマド君基金 「イラク戦争で戦死した戦場ジャーナリストに捧げる鎮魂歌(レクイエム)」

   田信介(享年62歳)。かつて日本に戦場のことは橋田に聞け!といわれた男がいました。
   戦場ジャーナリスト・・・著作にはそう記されています。
   
 平和な日本に住んでいるはずの男が、なぜ好んで戦場に赴かなければならないのか?   
彼の妻、橋田幸子さんは語る。「信介さんが一番輝いているところだから」   
「男の人が一番輝いて仕事ができる場に私は働かせて上げたい。信介さんが好きだから・・」
   そう思って橋田信介氏を送り出したといいます。
   
 橋田幸子さんが全身をかけて愛した橋田信介氏が戦場から伝えたかったこととはなにか?
   
 2004年5月.27日 一発の銃弾が戦場ジャーナリスト橋田信介氏の命を奪った。
   橋田信介氏の妻 橋田幸子さんは最愛の夫を喪いました。永遠に・・・
   
 2004年	イラク戦争におけるジャーナリストの死は50人を超えた・・という
   橋田信介氏をはじめとする多くの戦場ジャーナリストたちがイラク戦争で散っていった。
   
 彼らが伝えることを欲した真実とは何か?
   戦場ジャーナリストと言われる彼らの死の意味は?
   戦場ジャーナリストの魂は?
   
 2004年6月4日、戦火の街ファルージャから海を越えて一人の少年が来日しました。
   モハマド・ハイサム・サレハ 父と祖父の名前を持つイラクの少年は   
橋田信介さんとの約束によって日本にやってきました。   
戦車の砲撃によって失われた目に光を取り戻すために。  
橋田信介さんとの約束を信じて。   
成田空港に待っていたのは失われた目の救援活動に取り組む沼津ローターアクトクラブの若者と   
その活動を支えて指導する沼津ロータリークラブのメンバーたちでした。   
信介さんの遺志を引き継ぐことを欲した橋田幸子さんは夫の遺体を引き取りにクエートにいました。   
彼女の意志は、引き継がれました。
   
 戦場ジャーナリスト橋田信介氏 橋田幸子さん そしてモハマド少年
   かれらが伝えることを欲する平和へのメッセージとはなにか?
   
 2004年6月4日 沼津ロータリークラブは第2570回例会に   
モハマド・ハイサム・サレハくんとお父様のハイサム・サレハ・モハマドさんを迎えて   
全会員とゲストであらためて平和の大切さを痛感しつつ、   
イラクで生命を奪われた二人の戦場ジャーナリストの魂に心からの黙祷を捧げました。   
その魂にやすらかなねむりが訪れんことを祈って。   そして、彼らが殉じた崇高な職業観に敬意を表して。
   
 2004年夏。平和への祈りをこめて   
「戦火の街ファルージャに 子ども病院を!橋田メモリアル モハマドくん基金」   
のプロジェクトはスタートしました。
   
 戦火の町ファルージャに一刻も早く平和が戻ってくることをねがっています。
 そのためにこそ平和への願いをこめた   「戦火の街 ファルージャにこども病院を!」の活動が、   
平和を求める市民の活動として広がることが大切だと信じています。   
10歳のモハマドくんのように戦火で傷つけつけられるいたいけな子供たちがこれ以上増えないことを!むこの市民が   
傷つけられる殺戮の連鎖を一刻も早く断ち切らること・・・を心よりねがって   
「橋田メモリアル モハマドくん基金」の活動を支えていくことこそ、   
100年目をむかえた国際ロータリークラブに集う日本のロータリアン一人ひとりの誇りであると考えています。